青森の縄文特別史跡 三内丸山遺跡に観光見学へ(写真多め)

青森の縄文特別史跡 三内丸山遺跡に観光見学へ

こんにちは。

今回は、

青森の縄文特別史跡 三内丸山遺跡に観光見学へ

というテーマです。

三内丸山遺跡

三内丸山遺跡は青森県青森市の八甲田山からの緩やかな丘陵にある標高約20mにあります。

縄文時代前期~中期(紀元前約3,900~2,200年 現在から約5,900~4,200年前) にわたる大規模な集落の跡から、たくさんの建物跡や出土物や墓などが発見された場所です。

江戸時代には存在が認識されていたことが記録では分かっていて、当時弘前藩の諸事情を記した永禄日記に残されています。

現代では1992年(平成4年)に発掘調査が開始され、1994年(平成6年)に保存が決定して、1995年(平成7年)から遺跡の整備と公開が始められました。

たぶん僕はこの頃に一度見学に行っていて、まだ出土物などを展示する縄文時遊館もなかったと記憶しています。

小学生だったと思うので記憶はうすいですが、行ったことだけは記憶にあります。

三内丸山遺跡公式

青森県の主な遺跡

西暦時代区分青森県の主な遺跡
B.C13,700年(約15,700年前)旧石器時代田向冷水遺跡(八戸市)
B.C9,600年(約11,600年前)縄文時代草創期大平山元遺跡(外ヶ浜町)
B.C5,000年(約7,000年前) 縄文時代早期長七谷地貝塚(八戸市)
B.C9,600年(約11,600年前) 縄文時代前期田小屋野貝塚(つがる市)
石上遺跡(つがる市)
三内丸山遺跡(青森市)
B.C3,300年(約5,300年前) 縄文時代中期 二ツ森貝塚(七戸町)
石上遺跡(つがる市)
三内丸山遺跡(青森市)
B.C2,200年(約4,200年前) 縄文時代後期小牧野遺跡(青森市)
風張(1)遺跡(八戸市)
B.C1,220年(約3,220年前) 縄文時代晩期亀ヶ岡石器時代遺跡(つがる市)
是川石器時代遺跡(八戸市)
B.C9,600年(約11,600年前) 弥生時代垂柳遺跡(田舎館村)

不勉強なもので、今まで三内丸山遺跡とみちのく津軽ジャーニーランで通過する亀ヶ岡遺跡くらいしか認識していませんでした。

いざ遺跡見学へ

入り口

遺跡敷地内の再現模型

時遊館から遺跡部分へ出てすぐ。
広いです。
走るのはあまり苦になりませんが歩くのはあまり得意ではありません。サンダルだし。

後付けの記念石碑

大型堀立柱建物跡(おおがたほったてはしらたてものあと)

建物で保護している穴の跡これは
大型堀立柱建物跡(おおがたほったてはしらたてものあと)

三内丸山遺跡や秋田県の池内遺跡などの拠点集落の中心にあり、祭壇や見張り台などに使われたのではないかと推測されています。

下記のように柱の直径・間隔・幅・深さがどれも同じように作られています。
どうやって測定して作ったのか、またどうやって柱を建てたのかを考えるとワクワクします。

ちなみにこの大型堀立柱建物跡に関する寸法については、仮に「縄文尺」などの共通の測量や寸法の尺度や手法が確立されていて、使用されていたのではないかと考えられているとのこと。

文明すごい。

柱の直径 約1m
柱穴の間隔 約4.2m
約2m
深さ約2m

復元した大型堀立柱建物跡もあるのですが、写真が見当たらず。

北盛土(きたもりど)南盛土(みなみもりど)

盛土(もりど)はなんなのかというと、竪穴建物や穴などを掘ったときの土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などを長期間同じ場所に廃棄し続けた結果、小山のように盛り上がっている場所です。

三内丸山遺跡にはこのほかに南盛土が存在します。

建物内で保護して、展示出来るようにしてあるのは一部分で、全体では南北に約70m×東西に約30mでもっとも厚い部分では1.8mの厚さがあります。

自然堆積を示す黒色土をはさむことなく、人為的に廃棄されたと考えられる遺物が大量に含まれることと、赤土・褐色土主体の黒色土・炭化物・焼土等が主体で堆積していることから、継続的な堆積つまり現代でいうところの埋め立て処分場ということになるのでしょうか。

このように遺物や廃棄された遺物や炭化物や土砂類が、とっちらかることなく決められた場所に継続的に集めて埋められているということは、明確なルールや社会性があったことがうかがえます。

それが年長者や特定の長的なカリスマによるものなのか神様とか見えない力に対する畏怖によるものなのか、はたまた現代の日本人に通ずる、人に迷惑をかけてはいけないだったり、横の繋がりで同調してということなのかは分かりません。

現代では明文化された法が存在しても守れないことがあるにもかかわらず、縄文人の同調性すごい。

思うに、現代では特に2010年代以降は、周りに合わせる必要もなく個人で生きて行くにはそれほど困らない時代になったのですが、古代から近代のわりと最近に至るまでの間は、村八分にされると圧倒的に生き辛いという側面があったと推測されます。

動物の世界などではよくある話ですが、何らかの理由でシカトされたりして暗に群れを追放されたりしますが(これは現代でもそこいらでありますが)、近代現代ならともかく、近代文明の無い時代では群れに所属しないということは物理的に生きていく難易度がかなり無理ゲーになるから従わざるを得ないのだろうと勝手に考えています。

北盛土

南盛土

北の谷

北の谷では、動物や魚の骨や種子、漆器や木製品に編物、寄生虫の卵などの有機物の遺物が出土しています。

これらの出土物は時遊館にも展示されていますが、同じ廃棄物でも南北の盛土とは別な場所に廃棄されているというのが興味深いです。

たぶん縄文人の間でも生ゴミくせーわ虫沸くしちょっと遠くに捨てるべ。

みたいなことがあったのではないでしょうか。

環状配石墓と道路跡

これもストーンサークルの類になると思うのですが、なぜ古代の人は石を並べるのでしょうか。

近くの小牧野遺跡でもストーンサークルがありますが、そもそもストーンサークル自体に現在のところ明確な説が分かってないとのことです。

どうやって運んだかも不明ですし。

余談になりますが、ピラミッドなどは本当にその良い例です。

大手ゼネコンである大林組が1978年にエジプト文明のクフ王のピラミッドを現代で建設するならという試算を出しています。

工期が5年、工員3500人を使って1250億円で完成とのことでしたが、この試算については現代の科学や技術を使用することが前提で、ブルやトレーラーに大型クレーンも使用します。

そして、材料たる200万個の石を切り出す必要があるわけです。

もうぜんぜんわかりませんが、今回のストーンサークルはそれほど大規模なものではないので、大丈夫なはずです。

分からないというだけで、意味がないというわけでは決してなく、おそらくは当時の人たちの精神世界や文化やあるとしたら宗教や思想などを形にしたものであると推測されます。

掘立柱建物と大型竪穴建物

掘立柱建物はさきほどの大型掘立柱建物に柱の感じは似ていますが、もっと小型のもので、地面に炉や床などの跡が見つからないことから高床建物であったと考えられています。

竪穴式住居のように壁立式に掘立柱を用いるものとは異なり、壁立式の側壁は用いないものとされています。

弥生後期の吉野ヶ里遺跡(佐賀県)や弥生時代の登呂遺跡(静岡県)には高床式倉庫なども出現していて、また現代でも東南アジアに存在していたりもします。

もし仮に当時の人がこの復元建築物を見る機会があれば

全然ちげーよ

などと大変なつっこみを受けるかもしれませんが、それは歴史全てに言えることで、たらればは無いことになっているので気にしないことにします。

ちなみにこの掘立柱建物の柱は35の倍数の寸法で配置されており、これもまた縄文尺なのか、こういうのがワクワクします。

ここの掘立柱建物が該当するのか分かりませんが、高床式の建物は後の神社建築様式の神明造に発展していったといわれています。

なお奄美大島は八丈島、アイヌでは近代まで高床式建物は建築されていたとされていて、奄美市には現在でも使われているものがごくわずかあるということでとても見学にいきたいです。

遺跡の見学の記事はこのぐらいにして、次は遺跡の出土物を展示している時遊館の見学についての記事に続きます。

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